『老子』全文 書き下し文と現代語訳(超訳)【第一章】道の道とすべきは、常の道にあらず
このシリーズを作成しようとしたいきさつ
最近車の運転中によく聞く「老子」のYouTube動画⇓があります。
内容は非常に素晴らしいのですが、2つめの動画が誤字、誤読、誤訳が多いのが気になっています。
このため、ちゃんとした動画を作って上げようと思い(自分で繰り返し見るため)、その下書きとして老子全文・全訳(聞いても理解しやすい超訳)をブログで書いていきます。
車中泊が好きな方、自由を愛する方は、老子も好きな方が多いと思います。
ちなみに原始仏教(釈迦仏教)と内容が非常に似ており、心が安らぎます。
なお大乗仏教の「禅」は、老子の影響を非常に大きく受けていると言われています。
『老子』を読んでみると、日本文化の根っこの部分に老子の思想が絶大な影響を与えたということが非常によくわかります。(おそらく「禅」を介して老子の思想が根付いたものと思われる。)
第一章
※書き下し文、現代語訳(超訳)は、蜂屋 邦夫先生著『老子』 (岩波文庫)を参考にしました。
書き下し文
道の道とす可きは、常の道に非ず。
名の名とす可きは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に、常に欲無くして以て其の妙を観、常に欲有りて以て其の徼を観る。
此の両者は同じきより出でて而も名を異にす。
同じきを之を玄と謂う。
玄の又た玄、衆妙の門。
現代語訳(超訳)
これが道ですと示せるような道は、永遠なる道ではありません。
これが名ですと示せるような名は、普遍的な名ではありません。
天地が生成され始めるときには、まだ名は無く、万物があらわれてきて名ができました。
そこで、いつでも欲がない立場に立てば、道の微妙で奥深いありさま(妙)(物事の本質)が見てとれ、いつでも欲がある立場に立てば、万物が活動する結果のさまざまな現象(徼)(表面的な事象)が見えるだけです。
この二つのもの、微妙で奥深いありさま(妙)と、万物が活動しているありさま(徼)は、道という同じ根元から出てくるものですが、(微妙で奥深いとか活動しているとかいうように)違った言い方をされます。
同じ根元から出てくるので、両者はほの暗く奥深いもの(玄)と表現されます。
道はほの暗く奥深いうえにもさらに奥深いものであり、人間の言語による表現を超越しています。
そのような奥深いうえにも奥深いものから、あらゆる微妙なものが生まれてきます。
コメント(蛇足)
老子の言う「道」(みち、タオ、ダオ)は、仏教で言う「空」(くう)に近いものかと思う。
「有」と「無」を超越した概念。
言語を超越した「世界それ自体」
「世界のあるがまま、そのまんま」
「今、ここ」
人間は物に勝手に「名」をつけて世界を切り分け、「貨幣」「国家」「法」などの共同幻想(社会的実体)を構築し、世界をわかったような気になっている。
しかし、それらの究極的な本質は虚構(フィクション)=「名」である。
世の人は虚構(フィクション)=「名」に過度にとらわれて自縄自縛で苦しんでいる人が多いが、アホらしいからやめたほうがよくね?もっと自由に生きたら楽だよ。
老子が言っているのはそういうことだと理解している。
実は釈迦も同じことを言っている。
なお、禅では言語(=名)を徹底的に排除するが、やはりその根本は老子から来ている気がする。
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